昭和49年07月24日 朝の御理解



 御理解 第27節
 「昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃという者でも、だんだん不幸なことが重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろうが。なにほど、人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ。」

 合楽の大転換期とも申しますような、おかげを頂いております私共にとっては、御理解の頂き方と言うか、その感じ方と言った様なものが、非常に変わって来たように思うです。それは、私共が合楽にあるという。所謂その合楽を心に現しておるとか、合楽の世界に住んでおるとか。又は真善美の世界に住んでおるという、一段高められた所の世界に全部が住んでおりますから、その御理解も言うならば下の方で。
 いわば程度の低い所で聞いておった御理解と、ひとつ程度が上になってから頂く御理解とは、同じ御理解であっても、その感じ方も違ってくるし、受け方もやっぱり違ってくると、こう思うですね。だから確かにあのそうだと思うんです。ね。例えば今日のこの27節などを頂いておっても、今の合楽に住んでおる者は、そのいかにあの人は仏様じゃ神様のような人じゃと言うてもとか、正直でもという風に言うて。
 今までの合楽の中にはです、そういうただ信心でおかげを頂いておる、いわゆる我武者羅に信心しておかげを受けておるという人が沢山あったけれども、もうこの一線をかくしてからこの方というものが、合楽にはもうすでに悪人はいないという感じですね。又は合楽には皆、神様、仏様のような人じゃと言う事なんですよ。そうでしょう真善美の世界に住んでるんですから、合楽の世界に住んでるんですから。ね。
 言うならば合楽の世界にです、そういう例えば信心はしよりなさるけれども、ロクな奴じゃないと言う様な人があって良かろうはずがありません。ね。もう皆仏様の様な人じゃ神様の様な人じゃと。又は悪人から善人にいわばならなければもう合楽の世界には住まわれんと言う様なものを一人ひとりが感じておる。というてはあ悪を感じたり又は死んでは真ではない義理ですね。嘘を考え感じたり美ではない見苦しいそれを感じたりするですけれども、そういうものがすぐに自分で気がつくと言う事になるです。
 合楽全体が真善美の中にあるのですから。はあ自分は汚い、ああ自分は是は善ではなくて悪だと言う様な風に、もうすぐこう改めておらなければ、もうそこに合楽の佇まいの中に入っておられない程しのものを感じなければいけないです。そこでですね百のいわば(   )よりも一つの事実をね、持っておかげを現して行き、又それに当たって行かなければならないと言う事です。
 もう私共は言うならば、ね、一段高い時点というか、所に住んでおる私達だという。言うならば、合楽人だという自覚をですね、お互いが(                )。これは合楽人に相応しくない。こんな心をまだ残っとったとか。ね、ここん所は言うなら美的な感覚が自分はまだ鈍だから、ここんとこをも少し綺麗好きにならなければ美という事にはならないなとか。それは言うならピンからキリまでありましょうけれども、一応は皆さんが、ね、善人の自覚であり、神仏のような私であるという自覚。
 これをね私は今後はもう、スッキリと本当なものにして行く以外はないと。そこで例えばこの二十七節なんかはね、成程どんなにまっ汚い心を持っておる人であってもです。お取次ぎを言うた、御願いをすればおかげを頂くという時代からです。ね、それに善人でありそれに神仏なのような人を目指させて頂いて、自分もまたはあこういう心の状態を神仏と言うのであろうかと言う様な自分の心にです。ね。をまあ心を感じながら信心を愈々進めて行こうと。
 その為には、言うならば百の言わば理論よりもです、一つの事を現して行こうと。そこに、愈々焦点が置かれて来ると。だから言うならこの御理解は合楽の人達にはあんまり、もう必要じゃ無くなってくると言う事。ね。それはんなら正直者とか、また神仏の様な人とかという、それとは反対に心が、あの人は夜叉のような人じゃ鬼のような人じゃと言うても、正直者の反対は不正直者です。ね、ずるい人です。と、言う様なものが無いと言う事になって来る時にです。
 そういう心で神様にすがるから、お徳を受けないはずがないです。ね。そこでですね、一つの事実をね、私共が現して行くという事ね。言うならば本気で愈々、その成り行きそのものを大事にして行くと言う事ね。愈々内容の充実を図って行くと言う事ね。自分達の心の中に感ずる、いわば合楽の世界に住むというか、合楽を現して行かなければならない、それに(    )しくない自分の心の状態というものを、正して行くと言う事だけに一生懸命になれば良いと言う事になります。ね。
 言うならば本当に神仏を目指すと言う事なの。本当に不正直な心などという物は、自分の心には無いと言う事に、なって行くと言う事です。それには矢張り私が合楽人であるという、合楽に住まわせて頂いておると言う事。合楽に住まわれる、合楽の世界に住んでおると言う事ね。合楽を自分の心に現し合楽を自分の家庭に、自分の周辺に現して行くという一つの御用と言うか精神をです。やっぱり本気で持たせて頂くと言う事。
 そこにです合楽に相応しくないものは、自分でも今まではです。ね、人が悪かっても言うならば神仏の反対である所の、本当に自分の心は浅ましいと言う様なものでも、信心しておかげを受けるのは別物であるようにおかげを受けて来た。けどもそう言う事でおかげを受けて行くと言う事は、おかげは受けても、それが徳に成る筈がない。言うならば鬼に金棒。信心させて貰ってその上愈々、ね、真善美真の人言うならば善の人。いわば美の人。それをですなら自分の心の中に先ず発見する。
 いやあ本当にこの頃こういう御理解を頂くが、自分の内にも自分の心にもです、だんだんこの真善美の要素が足ろうて来たという、今まで頂いて来たおかげを、おかげと気付かせてもろうて、それを愈々育てていく。もう限りなく育てて行く。ね、本当に親先生の言う、合楽の世界という、真善美の世界にはです、貧乏もなからなければ病気もない。争いもないと言われるがもう本当にこの頃は、ね、もう本当に健康であると言う事に改めて気づかせてもらって。
 その健康をいよいよより健康に、またその健康をより有り難い事に使わせて貰い。いよいよその健康である事を心の底からお礼を申させて頂くと言う事。いわば健康である事が当たり前のような考え方は無くなってくる。ね、善と言われるがです。自分の家庭には悪は無い、自分の心には悪はない。ただ良かれがし神様がお喜び頂けるような、と言う様な心だけしかない。それでいても所々時々っちゅうか、ちょこっと覗いてくるものがあると致しましてもです。
 先ずは善の人である自分という、いわば確信が出けて来て。それがよりもっともっとあか抜けした善になって行かなければならない。ね。言うならば美の世界。ね。そこには美的な感覚がいよいよ磨かれて、良い物が良い物として解らせて貰う。これは私は何でもまあ日本一とか、世界一と言われるような人を書いたり、描いたりした書とか、又はあの絵とかというものを、もう出来るだけチャンスがあったら、逃さず見せて頂きたいとこう思うております。
 福岡辺りで色んな、ああいう美術展の様なものがあります時にですね、分からんのです勉強してないから。けれどもやっぱり良い物は良いというものが、段々分かって来た事です。訳は分かりません。ね、訳は分からんですけれども、なら例えばお花一つでもそうです。ね、只お花そのものが綺麗というだけじゃなくて、そのお花が色々にこう埋け上げてある。それがその愈々スッキリとした美をそこに醸しておる。
 またたまには全然私共では分からない、言うならお花が最近は流行ますね。けれどもその美的感覚がだんだん、優れて優れた人がそれを、言うなら埋け上げてあるとですから、言うなら、良さが分からんのだけれども、まあどこが良いか分からんけれども、何とはなしに、やっぱり良いものは良いなと、感じる心というものが、段々出けて来るのです。ね。折角ならば、例えばより良いものを身につけさせて頂けるように。
 より良いものを、目に見せて頂けるようなおかげを、だから願わずにはおられません。そこにまあ極楽というのは、こう言う様な事であろうかという風に思う。ね、昨日はお月次祭ですから、お月次祭には必ず両親の所でお食事をするようにしとります。ここ2~3回妹も一緒に早くやって来、一緒に頂きます。綺麗にまあ部屋の中が整頓してある。庭もその時四季折々の花が咲いておる。こちらには泉水鯉が泳いでおる。
 最近段々あの、藤棚がいっぱいしこって、もう直射日光を避ける、いわば藤棚で何とはなしに涼しい雰囲気が外にあるね、段々その庭が綺麗になって行くと。そういう風にですね、矢張り極楽の世界というのは、こう言う様な所であろうかと言う様なものが、もっともっと、言うならば赤抜けして行く所のおかげを頂かなきゃいけん。ね。言うなら美の感覚を愈々高めて行く。いわば善の心。いわば合楽相善人の集いであると言う様にです。自分の心の中に善を愈々育てていく。
 いよいよ真を追求して行く。そういう真善美の世界に、もう一応皆さんが住んでおる。住んでいないと思うなら、まだ発見が足らんのである。おかげをおかげと気付いていないのであると思うてです、どうでもこうでも真善美の世界に住んで貰わなきゃならない。そこからです、その内容である所の、言うなら病気のない、ね、争いのない貧乏のない世界を創造して行く所のおかげが受けられる。その為にはです、ね、百の理論よりも一つの事を本気で実行して、その真善美に相応しくない取り組んで。
 愈々真善美を真善美足らしめて行く所の、修行をさせて頂く。もうその事だけにもう限りなく、昔言われました。限りなく美しゅうなる事に勤めて行く以外にはないと。今までは例えば悪であっても、不正直であっても、ここの二十七節に言われるように、信心しておかげは受けるのが、別物と言われるようにおかげを受けて来た。けれども、ね、今の合楽の方達の場合は、ね。そういう悪とか不正直といったようなもののない、そして頂いて行くおかげなのですから。
 愈々是は鬼に金棒という事になるのじゃないでしょうか。神様が喜んで下さる世界。私共もまた、有り難い喜びの世界。言うなら歓喜の世界に住んで行く。そういう世界をいよいよ本当な物にして行くと言う事だけに焦点を置いたら良いと思うですね。だから例えばもう物の見方感じ方というものがです。例えば御教えのなら御理解27節なら27節でもです。ね、言うならばその感じ方というものが変わって来た。そういう風な事を、今日(         )を頂いてから思わせて頂きました。
   どうぞ。